支援の主人公が支援者になってはいないか?~「手をつなぐヘルパー」続編~



先日、
「手をつなぐヘルパー」
http://teamaoi2003.com/post/4109

というブログ記事を書きました。

反応が二分されましたね。

私が書いたことに納得されない方は、
実際にヘルパーをしている人か
どうかがわかりませんが、
管理者は、現場の意見はこうだと
解釈したほうが良いと思います。
(下記参照ください)

管理者の皆さんは、
こういう意見が
実際にあるということを確認し、
それを、「支援」という方向に
導いてください。

さて、それは、下記のようなご意見です。

手をつなぐのは、愛情の表現だし、
良いのではないかというご意見です。

ひとつ考えたいのは、
職業的支援者が、
どういうコンセプトで、
お客様である利用者の皆さんと接するのか?
という視点です。

愛情を表現しないと、
支援者ができないのか?

そんなことはありません。

支援というものは、
愛情という見た目よさそうな言葉で
くるむべきことではなく、
それを持ち出すべきではないと思います。

そして、「彼らから繋ぐからやっている」
というご意見もありました。

彼らから求められれば、
なんでもする訳ではないのに、
そういう部分だけ、
自分の行動の意味を、
彼らに対して、
なすりつける傾向にあります。

わかりにくいかもしれませんが、
もし知的障害の人が
したいことが、
あなたの納得しないことであれば、
やらないですよね?

だから、そういうことに意味づけするのは、
本末転倒なのです。

どんな場合でも、
私たちは、
支援者として、よい行動なのかを、
将来にわたり、
考えたうえでの
今の支援というものを
実施していくことなのです。

私たち支援者は、
とんでもなく身勝手なのです。

自分にとって、
無害な人とは、
手をつないだり、
受け入れたり、
楽しくする割には、
行動障害が激しかったり、
きたならしい装いをしたり、
一緒にいたくないような人を、
分け隔てます。

あなたのイメージする
支援とは、
何なのでしょうか?

自分が主人公になっていますよね?

それは、別な部分からも見え隠れします。

あなたは、手をつなぐことを
一生していくのでしょうか?

ということは、あなたは、
その人が、
一人で歩けない障害にしていることを
助長していると、
わかってないようです。

彼らから手をつないでくるから
そのままにしているという言い回しは、
何とも不愉快です。

そういう状況にしたのは、
私たち支援者です。

あなたは、あなたの活躍の場を
知的障害がある人を使って
自己実現しているだけです。

ひとりで歩けるにもかかわらず、
ひとりで歩いても安全であるにもかかわらず、
私たち支援者が障害を重くして、
なにをしようとしているのですか?

再度言いますが、
安全が取れない場合は、
手をつなぐこともあります。

体調や気持ちの変化によっても
手をつなぐこともありますが、
手をつなぐのが基本ではなく、
手をつながないのを基本にするべきなのです。

「手をつなぐヘルパー」の記事を書いたことで、
彼らの大人としての人権も
そがれていると言うことが、
表面化しました。

愛情。
彼らが繋いでくるから。

そういう言葉で、
彼らのひとりで生きていける部分があることを
そぐことになります。

彼らは、支援が必要でなければ、
支援者と一緒にいることは、
したくないはずなのです。

それは、
自分を見ればわかります。
あなたはいつも一人になることもなく、
四六時中、
誰かと一緒にいたいのでしょうか?

違うはずです。

自立という形はいろいろありますし、
その人が心地よく安心して
自分が主人公である人生を送り、
また、
支援者は、
そういう人が街を一人で歩いていることにも
街中の人が何とも思わない社会にする
一助となるべきです。

あなたが、
あなたの
「支援をしている」つもりである
感情に対し、
迷惑だと彼らは言えないのです。

たかが手つなぎではなく、
自分の行動を
彼らにとって
良いのか悪いのかと考えられる
支援者になりましょう。

そして、管理者は、
そういう考えを持つ職員の話を
聞いていただきたいと思いますし、
知的障害がある人の支援について、
もう一度その職員の考えを確認し、
「支援」の意味を共有していきましょう。