施設は集団論理から離れられないのか?



知的障害がある人は、
支援を受ける際に、
集団の中で支援を受けます。

この集団性の中で
職員配置が決まり、
一緒の集団にいる利用者の人が決まり、
個別支援計画も決まり、
それに沿っているにもかかわらず、
個人個人が
集団ありきの支援を受けていると思います。

私たち支援者は、
この方法が当たり前という感覚で、
毎年毎年を
くりかえしていくのです。

職員1名が、
何人の利用者を同時に支援するかという
論理です。

職員側は、
集団の論理という目に見えないものに
左右され、
個人の人生を考える際にも、
集団全体を先に考える思考の形になるのは、
日々当たり前すぎて、
はたして正しいのか?
と考える事もあまりないことでしょう。

先輩たちがずっと
その方法でしている施設であれば、
そういう状態は当たり前になっています。

そして、私たち支援者自身が、
集団による教育を受けたり、
家族の中での平等性を重要視されたりする
人生を長く続けているせいか、
集団へのサービスの均等性という
思考の形になりやすく、
誰かへのサービスと
その人へのサービスの違いを
個別支援計画とは捉えず、
「いいの?そんなことしちゃって?」
「特別はだめでしょ?」
という思考の形に
なりやすくなっています。

たまたま、集団である施設というスタイルは、
建物や福祉機器というハードを共有し、
支援者というソフトを共有するための物であり、
集団が同じことをしなければならないという
決まりがないはずなのですが、
どうも、どこかで解釈を間違ったのかもしれません。

ですから、
作業内容が人によって違ったり、
活動内容がそれぞれに対して、
複数用意されたりしているにもかかわらず、
個別性を重視するというのは、
平等性に欠けると思い込んでしまう訳です。

作業が人によって違ったり、
活動が複数用意されているとしても、
それもやはり、
何人かで行う「集団性」です。
たった一人のためにすることは
生活動作の支援以外は、
極端に少なくなります。

このように、
たった一人のために
サービスを展開することに、
拒否感を持ち、
「特別はよくないでしょ?」という論理に
なりやすいのです。

何がよくないのか?

ご本人から見れば、
願ったりかなったりの支援を
拒否的に見るのは、
マンツーマン対応は、
職員が大変だからというイメージからです。

集団なのだからと、
集団に合わせ、
集団の中でできることだけを望んでいるのは、
支援者側です。

しかも、
集団論理は、
その人の自立の方向性ではなく、
時間つぶし的な活動も多く、
逆に人手がかかっている状況が変わりなく続きます。

もし、個別の活動が出てくると、
できることの中ですることも多くなり、
できることがさらにできることを増やし、
その人の自立度は高まり、
職員の手を離れやすくもなりますが、
職員は
自分たちのどういう関わりが自立方向に
向かわせるのか?を
考えにくい状態となっていることに
気づいていないのでしょう。

自分たちがしていることを
どんな将来になるかとイメージできておらず、
集団でなければならないとしていることに、
なぜそうであるべきなのかを
利用者の側から考えると、
集団ではないほうが
その人にとっては自立方向に行くことを
改めて考えてみるという
立ち止まりをして欲しいものです。

集団ありきではない、
個別という支援が、
彼らにとっては、
今以上にここちよくなるわけですから、
自立度が高くなることで、
支援の時間をも減らすことにつながります。

集団だからこそ、
支援を多く入れている実態も考え、
現状の課題を
こういった視点からも捉え、
利用者の個別性
利用者の自立
職員としての仕事全体のバランス
という見方からも、
今、なぜ集団性を必要と考えていることに
固執しているのか、
改めて考える時期が来たと言うことです。