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相模原障害者施設殺傷事件を振り返り、障害者支援者は何をしていくのか?



2016年7月26日に
神奈川県立津久井やまゆり園という
知的障害がある人の福祉施設で
事件が起き、
19人の方が亡くなってから
5年目を迎えました。

改めまして、ご冥福をお祈り申しあげます。

この間、同施設の職員を中心に、
利用者の皆さんの意思決定支援を
丁寧にしてきたところで、
その延長線上として、
ご自身が住む場所を決めたところです。

地域で暮らし始めた人もいらっしゃいますし、
新しくできる施設に入ると決めた人もいます。

そして、神奈川県立津久井やまゆり園は2つの施設となり、
2021年7月、1つ目の建物が開所し、
まず、相模原市にできた「神奈川県立津久井やまゆり園」に
引っ越しをされる段階です。
今後、もう一つの施設である、
「神奈川県立芹が谷やまゆり園(横浜市内)」も開所し、
同様に仮住まいからの引っ越しとなります。

さて、この5年の間に、社会の中では、
多くの人がこの事件を振り返りつつ、
知的障害者の皆さんに対する思いや見方が
変わってきたり、
新たな気づきがあったりしたと思いますが、
大きく知的障害がある人たちにとって
確実に良い方に方向が変わったという感覚は
私にはまだなく、
今後、社会は、
どのように変化していけるのだろうか?と考えつつ、
そのためにも、
自分たちのような、
知的障害がある人の支援者の役割として、
することが山積みなのだろうと
感じているところです。

もちろん、世の中は、
障害がある人の想いに
寄り添える方向であると思っておりますし、
何かにあきらめているわけではありません。

ただ、これが、一足飛びで
国の目指している「共生社会」に行けるのか?というと、
この言葉だけが独り歩きをしていて、
実際のところは、
できるのだろうかと思えるようなことが
起きています。

いじめ・虐待なども後を絶ちませんし、
自分と違う価値観を持つ人を排除しようとするなどを見ると、
知的障害がある人への関わり方や考え方で
社会の側が課題としなければならないことは、
多くあるよう見受けられます。

共生社会とは、
自分にとってテリトリーに入れたくない人とも
共生するということになりますから、
自分に対して不利益を与えそうな人とも共生となると、
困難を伴ったり、
できないと思われる人も
いらっしゃることでしょう。

なので、
共存社会を作ることが
第一段階なのではないかと私自身は考えています。

人はそれぞれ、距離を置きたい人もいるでしょう?
それは自分を守るために必要なことでしょうから、
そういう人とは、距離を置くことも大切。

存在していることと
関わることは別な話。
ですから、共存。

共存をする中で、
たとえ仲たがいをしてたもの同士だとしても、
お互いを知っていく瞬間はあります。

まずは、考え方・暮らし方などを含め、
相手について知ろうとすることは大切なことです。

その人がだれであれ、
メディアの情報で見聞きした人であれ、
身近に存在する人であれ、
知らないことはあります。

「理解すること」については、さらに大きな課題ですから。
無理なく「知ること」からする。

もちろん、これは知的障害がある人のことだけを
さしているのではなく、
一般論として、話しています。
自分とあわない人は、いるはずですから。

そういう個々人の状況がある中で、
私たち支援者には、
「障害がある人のことを社会に知らせる」
という役割があります。

障害がある人への理解が進まないのは、
まず、社会にいる人たちが、
知的障害がある人のそれぞれの普段の姿を
知る機会が極端に少なく、
知らないにもかかわらず、
捉え方によっては、
誤解を生じるような偏った情報が独り歩きして
知った気分になっていることもあるのだろうと
私は思います。

がんばっている障害者がメディアに映し出され、
コミュニケーション等の障害がある自閉症の人のパニックなどは、
あえて見えるところに出にくい現状ですから、
そういう部分も含め、華やかな部分だけではない
彼らのあたりまえの喜怒哀楽も含めた日常を
知る機会を作る大切さがあると思います。

また、そもそも、障害者支援をしている人が、
虐待などの事件を起こしていることを見れば、
まずは足元から、
取り組んでいかなければならないのでしょうし、
もっといえば、
幼少の頃から、すべての人に
オブラートに包んだような言い回しではなく、
自分自身がどんな人であれ、自分を大切にすることをしつつ、
全てを自分の常識にあてはめることだけで事を済ませず、
いろいろな人がいることで社会が成り立っていることや
不要な人はいないことを伝えていくことが
必要なのだと思います。

「知的障害がある人には、やさしく接するべき」
的な、言い回ししか伝えていない現状では、
誰かに言われたからやるような精神論になりやすく、
「本当はしたくないけど言われたからする」
という方向づけになってしまい、
自分主体の考えになりにくく、
実際に接することでの
違和感になりやすいのかもしれません。

知的障害がある人の周りで、
さまざまなことが起きていても、
知的障害があるご本人からの訴えがない分、
解決しにくいこともあり、
間違ったイメージが先行している可能性もあります。

結局、「知的障害がある人のことを知らない」
ということから様々ことが起きているのです。

「知らない」のですから、
「知る」機会を自然な流れの中で
提供していくことが大切。
単純明快ですし、それは私たち支援者の役割ですし、
教育業界にもお願いしたいところです。

なぜなら、
勉強ができないと言われるような子が、
肩身の狭い思いをしないことも
多様性を認める社会になる一歩となるからです。

知ろうとしていただけることや
知っていただくことで、
知的障害がある人への見方が変わる可能性が
大きくあるのです。

無関心層の人が一番多いかもしれませんから
まずは、存在を気にかけていただけると
うれしく思う人は
たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

支援者である自分が、
関心がない人や知らない人に、
知的障害がある人のことをどのように伝えていくのか?

知っていると明言している人も、
知的障害ご本人が欲する接し方か?となると、
支援者がしていることは、
不足していることもあります。

たくさんの人に知っていただき、
それぞれのテリトリーに入れていただく、
効果的な伝え方は、日々の積み重ねの中で
間違った側に同調せず、
伝える取り組みをあきらめないことなのでしょう。

嫌いだという意味で気にかけている人も
誤解をしている可能性もあります。

仮説ですが、
その人の中で、
知的障害がある人を
嫌だと思っている部分は、
その人にとって知的障害がある人との関係性の中で
何かが起きて
困ったことがあった可能性もあります。

であれば、そのお困りのことを解決することで、
知的障害がある人を今以上に
正しく知っていくこともあると思います。

先にも書きましたが、
自分のテリトリーの中に、
入ってほしくない人がいることは
だれでもあることなのです。

でも、誤解していることで、
知的障害がある人を
その人のテリトリーの中に入れないと決めることは
残念なことです。

まずは、知的障害がある人の支援者として、
身近にいる人たちに、
知的障害がある人の支援者ですと言ってみる。

そこから生まれる関係性を大切にしてみませんか?

知的障害がある人たちは、
自分たちから主張できない人もいますから。

私たち支援者が、
彼らのことを社会に伝え、
社会を変える1歩となることは、
きっと物言えぬ知的障害がある人たちも
望むことなのではないでしょうか?

さあ、あなたは何ができるのでしょう?
もちろん、私にも何ができるのかを
考え行動をします。

社会を変えるとか、大きな事でなくても良いのです。
身近な人に、知的障害がある人の存在を
伝えてほしいと思います。

まずは、今日から、ひとりの人に、
「私は知的障害がある人の支援者(家族)です」と、
伝えることから始めませんか?

あの日の事件を思い出し、
立ち止まらずに、前に進みたいと思います。
ご一緒にしていただけると、
うれしく思います。

ひとりひとりの支援者が、
知的障害がある人の今以上の幸せを願い、
ご自身の近くの人にアクションしてほしいと思っています。

(写真:神奈川県立津久井やまゆり園 鎮魂のモニュメント)