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「役割がある」という考え方


今までのブログで、「知的障害がある人は役立っている」という表現でいくつかの記事を書いたと思います。

事の初めは、知的障害がある人の存在理由を考えていたことです。
神奈川県立津久井やまゆり園という施設で入所者の人たちが狙われた事件があり、19人の人が亡くなり、その時に「知的に重度の障害がある人は不要である」というニュアンスの言葉を植松被告が言っていることを知ったからです。(2020年1月8日より裁判開始)

知的障害がある人が「存在してもよい理由」などという生温い理由ではなく、「存在しなければならない理由」を考えたいと思っていた時に、ある人から「知的障害がある人たちは、誰かの自己実現のために存在する」という言葉を伺い、それがその時に、自分が一番納得しやすい言葉でした。まだまだ自分の考えが確立したわけでもなく、それでもその時の考えをまとめておきたかった時期です。
(2017年7月25日に書いた記事)

知的障害者が 存在しなければならない理由

あのころは、「知的障害がある人は、他の人の役に立っているんだ。だから死んでよいわけではない」という意味合いに、答えを求め考えていました。

別な表現で、「生きているだけで価値がある」とおっしゃる人がいます。
社会の中で役に立たなければならないのではなく、生きているだけで価値がある。
これも確かに正論です。
もともと、命に対して、あえて考えること自体、間違っているかもしれないのです。
でも、知的障害者はいない方がよいと考える人をもっと納得させることができる、しなやかさを持った言葉が欲しいのです。

そして、「生きているだけで価値がある」については、すでに「自分は価値がない人間だ」と思っている人にとっては、どうなのか?
他者から「価値がない」と言われたら、どうなのか?とも思うのです。
社会は簡単に、価値を決めたがるのです。
「あなたの価値は?」「あなたは役立っている?」と、誰かが評価をすることではないはずですが、自分自身が自分に対しての不安を払しょくさせ、納得するものが欲しい人もいると思っていると考えます。

そこから月日がたちました。

この問題は、もちろん、自分の命について他者が評価をするというところに問題があるのですが、先ほども書いたように、知的障害者不要論を持ち出す人に考えを変えてもらえるような話し合う材料が欲しいですし、自分の価値を低く見積もっている人にも間違った考えだったと感じてほしいために、自分に対して、整理をしているところなのです。

そして、自分自身が「役に立つ」ということで表現していたことに、全面的に納得していない自分がいましたから。

それとは別に「役割がある」という言葉を知りました。

「役に立っている」とは、他者が感じることが中心のようなイメージがあります。自分も感じることがあるかもしれませんが、誰かから「ありがとう」「助かったよ」などの言葉を言われなければ、自分自身で感じにくい可能性もあります。
「人に迷惑をかけている」など考えてしまいがちな自己評価の低い人にとっては、「役に立っていない」と自分を評価するでしょう。

でも、「役割がある」と感じるのは、他者の場合もあるかもしれませんが、自分自身が自分に対して感じることができると思います。
この中には、職業などの立場だけではないですし、良いイメージだけではなく「嫌われ役だ」と感じる人もいますし、「悪い見本」という人もいます。
「自分は役に立っている」という言い方はなかなかしないですが、「自分には役割がある」は、自分一人で自分に対して感じられるイメージです。

さらに言うと、「役割」とは、生きている時だけではないのです。
たとえば、亡くなったおじいさんの心優しい生き方を何年もたってからでも思い出し、おじいさんのように心優しく人に接して生きていきたいと思うお孫さんにとっては、おじいさんの「役割」を感じることは、亡くなってからも続きます。

そして、亡くなったおじいさんには感じ取ることはできなくても、それは他者が「おじいさんの存在が自分の役に立った」と感じることなのです。ただ、おじいさんとしては生きている間に、自分のことを見ている人がいることは感じていたかとは思います。そのおじいさんに「役割」があったことは、おじいさん自身も感じていたでしょうし、自身の役割をし続けていたことが、他者につながったのではないでしょうか。

この「役割」に着目したのは、がん患者さんの緩和ケアをされている人たちのコミュニティーに山田が入ったことがきっかけです。
知的障害がある人への支援とは、また違った視点ではありますが、生きることとか、つながるという視点に自分の仕事が役立つことがあるだろうし、また逆に、私にとっても役立つ何かがあるのではないだろうかと思ったことがきっかけです。

ある時に人が生きていくうえで、必要なものは何だろう?という視点を問われました。ワークショップがあり、死ぬ間際まで何を持っていたいか?というニュアンスの質問に、お金や仕事、家族や友達ということを選ぶ人もいましたが、私は「役割」を選びました。自分にとって、今まさに「役割」がないと困るからですし、「役割」があると思っていますし、死ぬ間際まで自分ができることや死んでからも必要とする人が使える発信物を今作ること(役割)をして、必要な人には山田をお役立ていただきたいし、それが知的障害がある人の幸せにつながると考えているからです。

このあたりで、教育現場も振り返ってみましょう。

迷惑をかけてはいけない
みんなと同じように
先生の言うことを聞きなさい

こうして、自分を見失う機会は、多く用意されているのではないでしょうか?
今いる大人たちは、そういう場を与えられ、自分が困っていたにもかかわらず、子供たちに同じような視点をまた放り投げ、社会に負の感情を蔓延させているのではないでしょうか?ですから、そこも改善していかなければならないと考えているところです。

さて、どんな人でも生きるということをしています。

そのなかで、何かの行動をし、人と関わることをしたり、いやなことには関わらないこともします。それはその人にとって必要な、そして自由な生き方なのですが、先ほども書いたように、その生き方について、役立つか?を問うのは、他者もしくは他者を意識した視点なのです。

相手に役立つか?
社会に役立つか?

自分は自分として生きているのに、他者が自分を評価するのです。
だから、役立つ人間になりたいと考えることにつながるのではないでしょうか?

知的障害がかなり重い人の中には、そういうことさえも考えられない人もいます。
だからと言って、知的障害がある人に対して、他者が自分の価値基準で役に立つか立たないかと評価したがるのは、なぜなのでしょう?人の役に立たないと決めつけているだけなのです。

他者の存在価値について評価をしたがる人は、その人やその人の周りにいるコミュニティーのことを知らない人だと思います。表面的な見た目や自分の良く知っている人(特に有名な人)の意見に同調しやすいのは、よくあることです。

矛盾を生じていると思いませんか?

自分で自分のことを決めたいのに、他者がそれを役に立つかどうかを決めるということに。
自分の人生に対して他者が口を出してくるときは嫌悪感を持つのに、他者の人生に対して自分が口を出したり、究極は「いない方がいいんじゃない?」「死ねば?」と言い放つことに。
そして、その矛盾が社会を作っているところなのです。

人そのものが役に立つか立たないかより、その時々のその人の存在やその人の言動や思い出などに「役割」があるのは、申しあげたとおりです。
その存在(役割)を目の当たりにした人自身の人生に役立てるかもしれませんし、知らないから役立てられない人などもいます。
もちろん良いシーンばかりではなく、反面教師としての「役割」がある人や自分自身の失敗が、自分の将来に対して「役割」を持つこともあります。

人は人を
喜ばせたり、
傷つけたり、
見本にしたり(良しも悪しも)、
助けたいと思ったり…

人は生まれた瞬間から役割があり、亡くなってからも役割があり、それは自分にとっても、人に対しても、社会を作る上でも、役割を持っているということなのです。

自分の役割を活かすかどうかは、誰かが決めることかもしれませんが、自分自身はどんな評価をされようが、それは他者の課題ですし、自分とは切り離して考えることだと思います。

役割はあるけど、活かされるかどうかはわからないですし、活かされなくても活かされても、あなた自身の役割は続けていけるもののはずです。
自分の人生が誰かの目に留まらないとしても不幸ではないですし、評価を求めず自分自身の暮らしをしていくことが、自分らしさや自分の幸せに通じるのではないでしょうか?
他者は好き勝手言うものです。
役に立つかどうかという視点で苦しむよりも、役割があるということを確認し、自分の人生を生きていくことなのです。

生きづらさを抱えている人にとっては、そんな視点も有効になるのかもしれないし、他者に対して自分は役立たなければならないと考えている人にとっても、自分の役割をするだけで、それをだれがどう思おうとそれは相手が決めることであり、自分が決めることではないと思える人が多くなると、暮らしやすくなるのではないかと思います。

自分の役割を考え、人に惑わされず、自分の生活をすることです。

目の当たりにするのは、社会の中で悩む人の「自分は役に立っていない」「自分には価値がない」という論理。さらには、前述の事件で放たれた「知的障害がある人は社会の役に立たない」という不要論。

その中で、自分という何らかの役割がある人に対して、あなたは、役に立たないといいますか?その評価は意味をなさないと思いませんか?と問いたいです。

他者を意識している自分より、自分を自分の人生の主人公にする自分のほうが、「役割」に徹することができ、安心を手に入れられ、その時こそ、自分自身からも「生きているだけで価値がある」「社会に役立っている」を認識するときなのだと思います。

これは、「知的障害がある人が存在しなければならない理由」ではなく、知的障害がある人もその人の役割があるという話になります。その役割をどうとらえるかは人それぞれに任せることになりますが、知的障害がある人の役割を知らない人には、間違った解釈にならないよう、人それぞれが持つ役割を説明していくことになるでしょう。

また、これを書いたことは私の「役割」であり、それを誰かに必要とされなくても、私の「役割」をしただけで、今日の私にとっては、これが書けたことに対してほんのちょっと役割ができたといううれしさを持っています。でも、まだまだ引き続き、答えを求めて、考えていくことだと思っています。

「私には役割があります」と思えること。
「あの人にはその人の役割があるよね」と、自分と切り離して思えること。
「あの人の役割は、自分には関係ない」と思えることは、それはそれでよいこと。
そして、他者の役割を知ろうとすることは、大切なこと。

人の人生を評価せず、誰かと自分を比べなくても良いのだと思える人が増えたり、役立たなければならないと考え不安になる人が減っていくと、きっと、社会はもっと緩やかに、しなやかに、あたたかくなるのではないでしょうか。

自分が持つ役割。
他者が持つ役割。
そんな視点も持ってみませんか?

参考:
「役割」を意識させてくださったのは、
一般社団法人プラスケアです。
https://www.kosugipluscare.com/