ほしいのは「正しい障害者像」ではない



知的障害がある人への支援は、
やっぱり何が大事かというと
「ニーズ」になるのですが、
たとえば、
ケア会議に集まった支援者たちが、
全員一致で、
この人にはどういう支援が必要かと、
簡単に出せないときのほうが
多いはずなのです。

それなのに、
こういう方向にしましょうと
簡単に決まるケア会議になりがちで、
信用なりません。

その人の人生ですから、
その人に決定権があります。
しかし、障害ゆえ、
自分の人生にとっての正しい道を
選べるとは限りません。

そこで、支援者が、
様々な材料や道を示しながら、
メリットデメリットも伝えながら、
障害があるご本人に
選んでいただこうとするわけですが、
これもなかなかうまくいかないのです。

なぜなら、支援者本人を
「正しい障害者像」を求め、
そちらの方向に進むであろう道を
作りたがる傾向があるからです。

健康な障害者。
がんばる障害者。
真面目な障害者。
優等生の障害者。

支援者は、少しくらいと羽目を外し、
楽しんでみたり、
怠けてみたりするのに。

支援をしているときに、
その人が羽目を外すことを
良しとされない傾向にないですか?

ギャンブルしたい。
お酒を飲みたい。
たばこを吸いたい。
性行為をしたい。
甘えたい。
贅沢したい。
寄り道したい。
行きたくないから休みたい。
一人になりたい。
あの人嫌い。
山盛り食べたい。
ラーメンの「はしご」したい。
お金たくさん使いたい。
薬は飲みたくない。

きりながいくらい出てくるでしょう。

支援者が望む障害者像は、
支援者にとって楽なのです。

彼らの人生が波乱万丈になればなるほど、
支援者の手に負えなくなるからです。

そして、事故や事件や
いろいろ起きると思っているのではないですか?

支援者は、
事故や事件が起きないような
支援をすればいいのです。

それは、あなたが考える
「正しい障害者像」とは
真逆であっても
できるはずです。

臭いものにふたではなく、
そういうことを認めつつ、
事件や事故につながらないように
支援するということです。

それでも、やっぱり、
面倒に感じるでしょうね。

それは、「正しい障害者」でいてくれた方が、
世の中にとっても、
良いと思ってるからではないですか?

支援者が、社会に対し、
なにかに引け目を感じ、
社会に合わせ、
世の中にとって良しとされる障害者を
作りたいからではないでしょうか?

私たちは、
社会の中で障害がある彼らを
支援をする役割だと言うことを
はき違えがちです。

その人の人生にとって何が大事なのか、
よく考えてほしいのです。
あなたの人生でなく、
その人の人生なのですから。

そして、何が彼らの人生を豊かにできるのかも
もう一度、彼らの人生の側に立って、
考えるべきです。

きっと、あなたの今の思いを知ったならば、
「正しい障害者像」なんか、
俺に求めないでくれ!
と言われると思いますよ。

(2013年6月26日付け 
福祉屋あおいのブログ
『ほしいのは「正しい障害者像」ではない。』より転記。
加筆訂正あり)

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実は、このブログ記事は、
当時、私が書いた後に、
ある人が、ほぼ同じ内容で、
ご自身のブログに書いています。
(「ある人」は特定しています)
苦情は申しあげておりません。

こういう考え方を
広めてくれたことは、よいのですが、
さも、自分が書いたようにすることは
いかがなものでしょうか?

この文章に関して、
また、ほかの文章に関しても、
著作権を放棄したわけではありません。
ご理解のほど、よろしくお願いします。