どこからその発想が生まれてくるのか?
と思いがちですが、
それは、とりあえずおいておいて、
知的障害者がかわいそうだからと、
いろいろな考えや行動を起こす人がいます。
かわいそうだから、
何とかしたいと思う人。
かわいそうだから、
死んだほうが
良いのではないかと思う人。
かわいそうだけど、
自分には関係ないと思う人。
かわいそうだけど、
関わり方がわからず、
関わらない人。
かわいそうだから、
何でも許してしまう人。
いろいろな方向に分かれていきます。
解釈は同じなのに、
行動が変わりますよね。
それは私たちの
表現だからです。
想いは一緒だとしても、
行動は、
それぞれが違うのです。
そして、
この「かわいそう」という解釈だからこそ、
間違った方向に行ってしまうのは
事実ではないでしょうか?
それは、
「かわいそう」だから
世の中からいなくなってしまえと思っている人と、
「かわいそう」だから、
何でもしてあげようと思う人と、
私の中ではあまり変わらないのです。
それはなぜか。
「かわいそう」と思っているところが
同じで、そこが、間違いだからです。
このことは、
ブログという小さな発信ツールでは
書き切れないほどの、
大きな課題なのです。
ですから、ここでは問題提起に終わらざるを得ない、
中途半端な形をお許しください。
2016年、相模原の事件があって、
私は「彼らがいていい理由」ではなく、
「彼らがいなければならない理由」を考えています。
きちんとした文章にはならないにしても、
少しずつではありますが、
きっかけになる言葉は出てきています。
あの事件では、
まさしく
「かわいそう」だから殺したと
いわんばかりの発言もしているようです。
また、この「かわいそう」で、
親が子を殺す時にもあります。
知的障害がある人を
なぜ、「かわいそう」とひとくくりに
決めつけるのだろうかと
思うわけです。
私から見たら、
彼らは「かわいそう」でもないですし、
毎日楽しく過ごしている人の方が
多いと思います。
なのに、決めつけるのはなぜか。
それは、彼らを知らないからです。
そして、自分と比べるからです。
自分と比べて「かわいそう」と思うのでしょうね。
「かわいそう」という見方で、
本当の彼らを知ろうとせず、
「かわいそう」だからという理由で
さまざまな行動を起こしているのです。
では、そういう人たちに、
「かわいそう」じゃないよと申しあげても
わかりにくい訳です。
だって知らないからです。
「かわいそう」ではなく、
世の中に必要な人であることを、
彼らを知らない人にも
知っていただきたいと思っています。
正当な理由を言ったり、
法律をかざしたりしても駄目だと思っています。
彼らがいなければならない理由。
それは、
「かわいそうではない」
証明でもあると思います。
今日は、まとまりのない記事ですが、
どうか、お力を貸していただき、
彼らが、彼らの生き方をしていて、
誰からも批判されない、
そして、同情されない社会を
作りたく思います。
彼らと接するのは、
誰でもできるはずなのです。
誰かが誰かを思いやる。
ちょっと相手の事を考える。
その時、困っているようであれば、
お手伝いする。
それは、持ちつ持たれつ、
お互いさまの世界です。
知的障害があるからと、
特別なことではないと言うことです。
彼らがおもしろいことをしていたら、
一緒に笑えばよいのです。
彼らが、何も困っていなかったら、
気にしなくていいのです。
目に見える障害だからこそ、
気になって、
何か特別なことをしようとするから、
自分と比べて「かわいそう」と
思っているのかもしれませんね。
もし、あなたが知的障害がある人の支援者で、
そばに「かわいそう」と思う人がいたら、
「どこがかわいそうなの?」
と聞いてみてください。
そこから会話してみてください。
その人の思っていることが、
現実と違うようでしたら、
「そうじゃないよ本当は」と
話してみてください。
そこから、変わる何かがあると思います。
あなたから、
身近な一人の人を
変えていただけませんか?
「かわいそうって思っていたのは、
間違いだった」
と気づいていただきましょう。