福祉関係者の感覚で、
知的障害の彼らが、
こんなことをしているのは、よくない
と思うことがあります。
例えば、
お酒を飲む。
ギャンブルをする。
遊ぶ友達がいる。
家にいる。
そういうことをしていると、
それは、「悪いこと」ではないのか?
という方向に考え、
それを防ごうとします。
白か黒か?
ちょっとくらいならいいのか、
絶対にやってはいけないのか?
などとも考えず、
できるだけ、
やめさせなければならない。
時間を減らさなければならない。
接しないようにさせなければならない。
そういう観点を持つということがあります。
すると、
知的障害があるので、
「悪いこと」をやめさせるために
どこでそういうことをするかというと、
かなりの確率で、
行き先は施設になります。
もちろん通所施設です。
ひとりでいる時間を減らすことで、
「悪い」とされることを
する時間を減らす論理です。
何かを悪い方に評価したがるのが、
私たち支援者の悪い癖です。
その「悪いこと」と評価されることには、
お金が絡んで来たり、
物の浪費が多いあったり、
時間の無駄遣いのような部分だったりします。
また、社会とのつながりの希薄さかもしれません。
でも、一度考えていただきたいのは、
ご本人の気持ちの部分、
そして、体のきつさがないかとか、
日常の生活が優先にした場合、
本当に施設で時間を過ごして良いのかなどです。
どうして、そういう状態なのか?
どんなことが、活き活きとできることなのか?
どんな将来を思い描いているのだろうか?
趣味ややりがいはどこにあるのか?
生きやすさ生きにくさの視点・・・
そういう理由から考えて、
今彼らがやっていることは
「悪いこと」なのでしょうか?
それがないと、彼らは不安定かもしれません。
家にいることがとっても大事な事だってあります。
企業等で働いていない知的障害者のすべてが、
施設に通わなければならない理由もありません。
そこは、もっと私たちが彼らの人生に
歩み寄るべきなのです。
そして、受け止めることもするべきです。
彼らの感情や生活の部分の知らなさを
棚に上げ、
みんなと一緒に
みんなと同じようにと、
施設に通所するだけが人生でもないのです。
集団でいる方が楽しいよ!などという
理由をつけられ、施設通いを求められても
きつさの方が先に来る方は多くいます。
例えば、
私たちだって、
すべての人が賃金を得る労働を
しているわけでもありません。
働いていたけど、
お子さんができて、
専業主婦をする人もいます。
労働と子育ては両立できないとなれば、
子育てに専念する人もいますし、
保育園に行くことで労働を続ける人もいます。
こうしてみると、
同じ条件の人でも
様々な家庭と仕事の考え方があります。
両立できる人から見れば、
簡単でしょ?と思われるかもしれませんが、
そうではありません。
様々な人生があってよいのだという考え方を、
障害がある人の生活にも
置き換えてみませんか?
施設に行くのがあたりまえではありません。
生活や人生をまず考え、
その中に「施設」という機能が入るのであれば、
良いのですが、
どうしても、
施設という機能が先回りし、
それに伴い、解決したというふうに
カムフラージュされているだけです。
それぞれの人生を、
どこ中心に考えるのか?
その時に、
あなたが「悪」と考えることは、
本当に「悪」なのか?
知的障害がある方が
しているから「悪」なのか?
その「悪」といわれることは、
支援者側が「悪」と
決めつけているだけでは
ないのか?
そんな視点を持ちつつ、
全てが施設に通うことばかりが
良いとは限らないことも
もう一度捉えなおしていきましょう。