「○○したい」を否定するのはなぜだ?



知的障害がある人の「○○したい」という夢や希望。

子どもだけではなく、
大人の好奇心だってありますし、
いろいろ考えてやろうと
決断したこともありますし、
もちろん、やめようと
決断したこともあります。

でも、彼らは、日常の中で考え
やろう(やめよう)としたことに、
ことごとく支援者から
「だめ」といわれることが多くあります。

また、それはよくないことと否定されたり、
代案が持ち出されたりもします。
その代案も、実は支援者にとって都合の良い
代案ではないでしょうか?

さて、私たち支援者が、
何を基準にして、
彼らが考えたことに「だめ」と
言っているのでしょうか?

ご自身の「だめ」の意味を
考えてみませんか?

こんなことはありませんか?

・あとかたづけが大変
・できるはずがない
・時間がかかる
・一緒にいる私が恥ずかしい
・すぐ飽きる
・お金がかかる
・そんなことしている人は誰もいない
・明らかに変
・誰かに怒られるのではないか
・人に迷惑がかかりそう
・病気になったら大変
・他の人もやりたいといわれたら困る ・・・

こうやって、理由を考えると、
この主語は誰でしょうか?

たとえば、「すぐ飽きる」のは、
ご本人かもしれません。
でも、すぐ飽きられて困るのは、
支援者と言うことです。

ですから、「○○がしたい」という気持ちに、
〝すぐ飽きちゃうでしょ?(面倒だなあ)″
という気持ちで、
させない支援者と
なっているのではないでしょうか?

また、
〝できるはずがない″
と思う時、
できなかったときに
どう支援をしたらよいかがわからない
という場合もあるでしょう。

パニックになったら困るなどもあるでしょうし、
また〝失敗するとかわいそう″
という気持ちもあるでしょう。

結局は「その後」をいろいろ考えてしまうのは、
支援者です。

このように、
あなたの気持ちは、
ご本人の為と思っているかもしれませんが、
そうとばかりは言えず、
あなた自身が困らないことのためであったり、
迷惑と考えている人もいるのかもしれません。

そして、
あなたの先回りした気持ちが、
彼らの経験を阻害しているのです。

もちろん、そんなことも
思ってやっているわけでは
ないことでしょう。

良かれと思いやっていることですし、
否定することで、
相手の役に立っているとさえ
思えるのかもしれません。

では、彼らは、
彼らの人生の主役に
なっているでしょうか?

権利という方向から考えてみては
いかがでしょうか?

彼らが考えていることを
あなたの都合で
否定する。

それでよいのでしょうか?

人には、
もちろん失敗する権利もありますし、
やってみて、続けない権利もありますし、
色々な気持ちを持つことを、
経験してのよいと思うのです。

あなたが良かれと思ってやっていることが
単なるおせっかいだったり
するかもしれないのです。

***

ご本人がやろうとしていることを
させないと判断するには、
理由が必要ですし、
していただくにも
支援が必要なのです。

それはあなたの個人的な感情ではなく、
「その人にとって」と、
その人を主体とした
考えを持たなければなりません。

そのことをやる時に
伝える情報があります。
あなたに必要なための情報ではなく、
その人にとって、
判断する有益な情報になります。

有益な情報は、
その人にわかるものわかる方法で
伝えることです。

やめさせる(続ける)前提ではなく、
説明することですね。

そうすれば、選ぶことも
できるようになりますし、
自分の行動を選ぶことにもつながります。

もしかしたら体験してみないと、
「もうやらない」「もっと続ける」が
わからないかもしれません。

そういう彼らが本当に自分で理解して
自己決定する前にあなたが
止めることではないのです。

もちろん、
大けがにつながるようなときも
あります。

そういう場合も、
やめさせるだけでは、
またやりたくなるだけで
同じ繰り返しを続けることになります。

これをしない方がいい。
これを続けたほうがいいと、
自分で決断できるような、
支援をめざしましょう。

あなたの支援上の困ったことだから
やめさせることが支援ではありません。

その人が行動するうえで、
「困ったこと」を解消することが
支援だと言うことをお忘れなく。