小さな変化に気づける支援者になろう



知的障害がある人たちは、
自分から、主体的に、
何かを訴える力を
持っていない人もいて、
私たち支援者が気づかなければ、
重要なサインを
逃してしまうことがあります。

ちょっと前の私でしたら、
職員が、彼らにした関わりや
気づかないという行為に、
「自分がされたらどうだろう?」と
思えることが大切だと、
職員に話していました。

最近は、そういう話をしても
「自分だったら平気です」と
いわれそうな事や虐待事件が多かったり、
そういうことにも
気づきにくい職員が存在することを
目の当たりにしつつ、
それ以外の言い方にしていました。

そして、マニュアルやシステムで
乗り切ることなのでは
ないかとも提案していました。

それでも、
できることであれば、
「自分がされたら嫌なことは
しない」といういい方でも、
話しが通じてほしいなあと
望んでしまうくらい、
まだまだ私は、
旧態依然の支援者なのかもしれません。

ですから、
今日も、その願望をもとに、
気づきのお話を
書いていきたいと思います。

例えば、
ボタンをひとつ外れたまま
気づかない知的障害の人がいたとします。

そのボタンが外れていることは、
支援者であるあなたが気づいていた場合、
そのままにするのか、
何らかの支援を入れるのか。

そこに気づいていながら、
何の支援も入れない場合を
想定しましょう。

あなたが知的障害だったとして、
そこに気づいた支援者が、
あなたに何らかの支援も入れないことを
どう感じますか?
と問いたいのです。

もうひとつ、
事例を書きましょう。

車いすの人で、
体位を動かせない人。
痛いとも痛くないとも言えない人の足が、
不自然な位置にあった時。

それに、支援者のあなたが
気づくか気づかないか。

もちろん、そのままでもよいかもしれませんし、
その位置よりも
もっと自然な位置があるかもしれないと
気づけるか。

このように、
ご本人がそうなっていることにも
気づかずにいた時には、
支援者である私たちの気づきが
大切だと言うことなのです。

でも、先ほど書きましたように、
気づかない職員や
気づいても、
気にならない職員ですと、
このことが、
どういうふうになるかも
想像できません。

ご本人の立場になって考えると
言うことは、
こういう場合に
その時のご本人の気持ちを
理解しようとするか、
そして、どう関わろうとするか、
気にしたり考えたりできることでは
ないでしょうか?

ほんのちょっとした変化に
気づくこと。
訴えがない人の変化に
「あれ?」っと思えること。

これは、私たち支援者が
五感を使っていくことです。

音がしたり、
においがしたり、
ご本人の目線が移動したり、
ため息が漏れ聞こえたり、
普段の会話が、いつもと違っていたり、
もっともっといろいろな変化があります。

視覚
聴覚
触覚
嗅覚
味覚

これらを使い、
いろいろと気づける部分は
あるはずなのです。

気づくことは当たり前でした。
でも、気づけない支援者は増えています。

かといって、障害がある人のSOSが
減っているとは言い難いのです。

気づける職員になってほしい。
でも、気づけないのであれば、
マニュアルやシステムを屈指してでも
気づく自分になってほしいのです。

どんな形にしろ、
気づくことで
支援が始まることには
変わりありません。

そして、気づけることは、
日々の慣れもあるでしょう。

職員として、
成長するために、
何をしていこうか、
どうすればできるようになるかと
先輩や上司の人を含めて
考えていくことかもしれません。
あなた一人では、
難しいかもしれないからです。

気づく職員になること。

絶対に必要なスキルです。
間違いありません。

彼らの変化や
「あれ?」と思うことができ、
なんらかの行動ができる
自分になりましょう。