自立の意味を間違って解釈してはいないか?



自立をするといった時に、
私たち支援者は、
何かを思い浮かべ、
それができることを自立と呼び、
よくできた!という感情を持ちあわせます。

その、「自立」は、
何を指したものでしょうか?

「自立」といったものの、
スキルは、
生活に密着したものと考えていますか?

できることが、どうしても
限られてしまう彼らですから、
できないことが多い中で、
何をできるようになったらよいかと
捉えるときに、
算数や国語といったものを
思い浮かべる支援者が多くいます。

たとえば、ひとりぐらしをするなら、
計算ができなければだめだろうと考え、
おうちにいるときに、
算数のドリルをしている、
大人の知的障害の人を見かけます。

(学校に行っている
お子さんの宿題とは
分けて考えてください)

この算数は、
掛け算だったりもするのですが、
例えば、「8×5=40」のような、
式の計算が紙の上でできることが、
効果的な自立の1歩かというと、
後回しにしてよいスキルになります。

要するに、
机上の空論的な感じでして、
その計算を、
日常に使わないからです。

計算ドリルをしている
時間があるのなら、
別なことをしていたほうがいいのです。

先ほども言いましたように、
自立のスキルは、
生活をしていく上で
必要なスキルと思ってください。

もちろん余力があれば
算数もすればいいとは思いますが、
そこが先ではないという意味です。

それは、もちろん、
人によって違うのです。

生活の中でできなくて、
それができるようになることで、
自立となることは何でしょうか?

例えば先日、
ある利用者から
電話がありました。

「病院に来ている。
(受付の票に名前と住所が書けないらしく)
いつも書いてくれるのに、
今日は書いてもらえない」

この人は、
重度判定を受けている
知的障害の人です。

住所と名前が書けなくても、
一人で病院に行けます。
ですから、受付表は、
誰かに書いてもらうわけですが、
施設にSOSができたことは、
自立に向かっているということです。

私から、もう一度他の人に
頼むようお話ししました。

そのあとは、
自分で頼めたようで、
通院して帰ってきました。

さて、この人に、
私は、住所と名前を書けるような
練習をすることを求めません。

もう高齢になり、
今から学んで名前と住所が
書けるようになるよりも、
人に頼むことができたので、
そのほうが自立は早いと思うからです。
(というか、もう自立している部分です)

もちろん何でもできたほうが
いいとは思いますが、
応用がきき、何にでも使いまわしが
できるものがおすすめです。

学力が上がるということだけが
自立ではありません。

今、自立のためにと、
させていることをもう一度、
見直してみましょう。

生活に役立つ。
一人でできる。
一人でできないときは、
人に頼める。

そんなキーワードのもと、
その人の自立に必要な物は
何かを考えましょう。

万が一、
今やっていることが、
自立というキーワードから外れ、
間違っているようでしたら、
見直すことです。

自立の意味を解釈し間違っていると、
せっかくやっていることが
意味ないことになってしまいます。

その人にとっての自立に
私たちが求めていることが本当に必要か、
そんな視点からも考えてみましょう。