知的障害がある人の中には、
言葉がある人と、
言葉がない人がいます。
言葉がない人の支援者は、
言葉がないために、
自分のしたい支援が
できないと思うことがあります。
特に、ニーズが取れないといったことが
焦点となります。
では、言葉がある人には、
したい支援ができるのでしょうか?
言葉があるから、
ニーズが取れる。
そう思っているかもしれませんが、
言葉があるとか、ないとかは、
ニーズを取る時に、
あまり重要視しなくても
良いのではないかと思うのです。
というのは、
言葉があると
言葉にたよってしまいがちですが、
本音でお話をしていただけないことも多く、
支援者に合わせた回答をしてしまいがち。
ご本人は、本当はしたくないことでも、
「がんばれますか?」などと聞かれてしまい、
「がんばります」などと言ってしまうことで、
この人のニーズがキャッチできたと
思い込む支援者がいると、
言葉が邪魔になるなと私は思うのです。
もちろん、言葉の無い人の支援をしていると
自分は本当に、この支援をしていてよいのだろうか?とか、
悩みますよね?
正しいのか正しくないのかが、
わからないからだと思います。
だからといって、自分の支援が正しいのか、
正しくないのかの判断には、
彼らの言葉での表現が必要でしょうか?
思い込んでいるだけではないですか?
ところで、
「自分たちがしている支援が、
これでよいのかがわからない」という言葉で、
自分を制限しているよう見せかけることに、
何の心地よさを感じていませんか?
「言葉がないから支援がうまくいかず、大変なんだよ」
そういう、大変さを見せたり、
つらい仕事の出来上がり?
もしくは、できないことのカムフラージュ?
言葉が話せるかどうかについては、
彼ら側が変わりようのない部分(障害)ですので、
まず、あなたの認識を変えてほしいのは、
その障害は「条件」だと認識することです。
そのうえで、
その人がどんな状態であれば、
こちらの支援が良いと思っていただけるのだろうかと、
自分たちが自分たちを
評価する基準というものが必要なのでしょう。
自分のしていることが心配ならの話しです。
でも、そこまで行くほどではなく、
ただただ、周りに言い放っているだけでしたら、
あなたの「言葉がないから大変」という
パフォーマンスではないでしょうか?
この手のことは、いろいろとあるのです。
重度だから、支援がうまくいかない。
車いすに乗っているから、どこもいけない。
自閉症だから、会話が成り立たない。
ご本人抜きで、
支援者が言い放つ言葉です。
でも、本来は、
その人の障害に関する部分は、
「条件」であり、
その条件がある人たちに対して、
私たち支援者が工夫をするところです。
自分の出来なさを吐露するのは、何のためですか?
できない自分として、何か工夫はしたのですか?
誰かに聞いてみましたか?
自分たちの支援の基準をざっくりと決めましたか?
自分たちは、
できないのですか?
本当に大変なのですか?
むずかしいというのはどういうことですか?
無理ってよく言っていませんか?
相手のせいにせず、
自分を振り返り、
自分から何かを変えませんか?
このまま彼らの障害のせいにするのですか?
そんな感情を、放置しておくのはやめましょう!