支援者による
様々な事件・事故は無くなっていません。
人権侵害・虐待にしてもです。
支援者が、よく使うのは、
「信用されていないから支援がうまくできない」
という、言葉。
果たしてそうでしょうか?
知的障害がある彼らは、
支援者を信じていないのでしょうか?
私はそうは思いません。
あったその日から、
「職員」「支援者」
「ボランティア」「先生」
などの肩書がついているだけで、
彼らは、あなたを認め、
近づきます。
トイレ介助も
食事も
お任せすることでしょう。
あなたが、「右に行きましょう」といえば、
会ったその日でも、
右に行こうとするでしょう。
これは、「信用」ではないかもしれませんが、
あなたの言うとおりにしようという気持ちは、
彼らにはあるのです。
もちろん、
どんな人かな?
と、探りを入れます。
それは、味方なのか、味方ではないのかを
見極めるからです。
初めて会う人に不安になるのは、
当たり前のことです。
私たちだって、そうですから。
でも、「自分は悪くないのに、
何で疑うのか?」
と、疑心暗鬼になっているのは
支援者です。
支援者は、自分だって不安で
彼らを信用していないのに、
彼らから信用を求めます。
そして、「信用がないから支援ができない」と、
自分のことを中心に置くのです。
さて、
あなたこそ、
彼らを信用していません。
それに、私たちはそんなに
簡単に信用を得られることを
していないからです。
冒頭に書きましたような、
人権侵害や虐待もまた、
その現れです。
私たち支援者は、
彼らに
信用するべきだという考えではなく、
信用がなくても
支援をするという
気持ちから入るべきなのです。
そして、
彼らにも、
私は伝えていきたいと思います。
支援者を
最初から信用しなくて良いと。
信用などは、
そんなに簡単にするべきものでもありませんし、
何でもかんでも
自分の生活を
任せるべきでもないと思うのです。
たとえば、
会った初日に「右に行こう」といわれたときに、
ついて行ってしまう事の方が、
おかしいと思ってよいのです。
これは、
自立という観点からも、
支援者の言いなりではなく、
自分で決めることが重要ですから、
信用ばかりしない方が良いのです。
支援者側には、
まだまだいろいろな課題があり、
ご本人が主体ではなく、
管理的になってみたり、
上から目線のことも多くあるのです。
でも、そのなかで、
彼らは身を預け、
あなたに支援を求めています。
彼らの信用を得るのは後回しです。
彼らの信用がなくても
支援をするのです。
それは、
私たちが支援者という立場を
選んだからです。
彼らには言いましょう。
自分を信用しなくても良いと。
そして、そのうち、
信用してくれたら、うれしいと。
信用というのは、
その日に得られるものではなく、
時間も必要です。
信用に値する支援者かどうか、
見極めていただくまでは、
信用がない状態でも良しとしましょう。
信用があるかないかは、
無意味な基準です。
私たちは、
支援が必要な人に、
自分ができることをして、
自立支援をするだけです。