子供の成長過程で、
なにか、SOS状態になった時、
まずは、泣き声でSOSを言っています。
生まれたての赤ちゃんは、
一生懸命に訴えます。
オムツが濡れて気持ちが悪い。
おなかがすいた。
抱っこして。
そんなことを、
「泣く」という行為だけで、
相手に訴えています。
それを、大人は解釈をして、
オムツを確認してみて、
あら濡れてない。
では、
この要求かな?と推理し、
選んでいきます。
そのうち、
大きくなり、
何か飲みたいときに
コップを持ってくるとか、
ジュースを持ってくることで、
大人は、
ジュースが飲みたいのだと解釈をします。
このような成長過程の中で、
子供は、
SOSを言わなくても、
周りの大人が、
推理や経験の中で、
SOSの種類を探し、
当てはめていくことになれていきますし、
子供も、SOSを言わなくても
わかってもらえると思い込みます。
その過程は、もしかしたら、
私たち大人が間違っており、
子供たちが
SOSを
年齢に応じた具体的に表現することが
できなくなっている方向に
つなげているかもしれません。
人生の中では、
生まれたばかりの赤ちゃんのSOS以上に、
様々なSOSが発生していくことになり、
選択肢が多岐にわたり、
具体的に表現をしない限り、
周りの人は、
その人のSOSにも気づくことは、
むずかしくなります。
そして、SOSの出し方もうまくない
子供たちは、
大人になるにつれ、
表現力も身につかないまま、
誰にも相談できなくなるかもしれません。
さて、このような子供たちではないにしろ、
知的障害がある彼らが、
SOSを言うことは、
むずかしくしているのは、
経験の不足からかもしれません。
つまり、知的障害がある人が、
何らかの表現をしたときに、
周りが解釈してしまっていると、
具体的なSOSを言わなくても、
何とかしてくれることが多いからです。
まわりも、
この人は困っていたら声をかけてくれると
理解していれば、
例えば「○○さん!」と呼ばれただけで、
ご本人の様子を確認し、
困っている部分なのか、
できないことなのか、
それとも、少し支援を入れたら
できることなのかの確認もせずに、
やってしまうことが、
多くなっているのではないでしょうか?
さらにいうなら、
なにもSOSになるような状態を
確認していないのに、
何かをしてあげてしまうということもあります。
たとえば、靴を履かずに、
靴箱の前で経っていたら、
靴を履かせてしまうようなことです。
待ってください。
SOSを確認しましょう。
何を支援してほしいと考えているのか、
具体的に確認しましょう。
このような日常を繰り返していると、
SOSを確認する前に、
してしまうことが多く、
彼らも、
SOSを言わなくてもやってくれるという気持ちになり、
あなたに身を預けてしまう可能性があります。
この支援者が判断してくれる。
その通りやっていればいい。
それが積もり積もって、
人生そのものを支援者に預けてしまったら、
支援者なしではやっていけない、
自立とは真逆な方向に行きそうだとおもいませんか?
そして、人生のわき役にも
なってしまうのではないかと思うのです。
支援者が、考えたとおりの人生になっていても、
彼らは、そのことに対して、
NOとも言わなくなってしまいます。
知的障害がある人が、
SOSを言うことは、
相手に迷惑をかけていると
思うことではありません。
自分が考えた部分への正当な支援を
要求することだと思うのです。
ですから、
主体をもって、
SOSを具体的に伝えることができる方向に
支援をしてほしいのです。
彼らが、自分の人生の主人公として、
今、ある「課題」を
解決していくための
支援を求めていく
瞬間を待ちましょう。
よかれと思って、
手を出しすぎたり、
代弁してしまわないように。
つまり、支援の開始は、
あなたが主体となってはいけません。
その人のSOSを具体的に確認することです。
それは、その人がその人の人生の主人公として、
主体的にしていただくためでもあります。