知的障害者は、生きている価値があるのですか?



「僕は生きている価値があるのでしょうか?」

時々、そういうおっしゃる
知的障害がある方がいます。

この人が、
こういう思考になるのは、
急に世の中の人と
自分を比べる時です。

他人が、何でもできて、
頭も良くて、
素晴らしい人に見えて、
自分はだめなような気になるようです。

生活保護をもらっているからと、
人に迷惑がかかっているように
思えてしまうそうです。

何をしても、うまくできないし、
僕は生きていていいのでしょうか?
ということのようです。

私は、こういう場合、
話をはぐらかすことは
効果がないと思いますし、
無視してもいけないし、
うそをつく事でもなく、
そんなことないよといっても、
賞賛しすぎても、
駄目なような気がしています。

この方に、いつもする話なのですが、
下記のようなことです。

*****

農家の人や魚を取る人は、
作ったり取ったり動物を育てたり
する仕事をしている。
それは、私たちにはできない、
すごいことだよね。

それをそれだけしているのでは、
その人たちの生活が成り立たない。

それを食べる人が必要になってくる。

その食べる役割を、あなたがしている。
だって魚も取れないし、
動物も育てられないし、
それは任せるしかないからね。

でも、買ってくれて、
食べてくれるあなたがいないと
農家の人も
漁師さんも困っちゃうのよ。

コンピューターを作れるほど
賢い人ばかりだったら、
みんなでコンピューターを
作るだけになってしまい、
コンピューターだらけになって、
コンピューターが売れないから、
だめなの。倒産しちゃう。

だから、コンピューターを作れないけど、
使いたいっていう人が必要なの。

それに、計算ができる人ばかりだったら、
計算機を作ってる人がこまっちゃう。

だから計算ができない人も必要。

あなたが計算ができないおかげで
計算機が売れるって事。

そして、あなたにもできることがあるよね?

縫い物ができるから、
うちの施設で縫物をして商品を作り、
売ってるよね?

お店に来たお客さんに、
こういうのがほしかったけど、
自分じゃ、縫えないから助かった!といわれ、
買って下さる。

縫い物ができない人がいるから、
喜ばれるし、うちの商品が売れるね。

世の中ね、
作る人
考える人も必要だけど、
できない人や、
消費するだけの人も必要なんだよね。

だから、あなたがいなくなったら
困る人がいるんじゃない?

・・・などという話をします。

「じゃあ、僕は生きていていいのですか?」

「どうだと思う?」

「生きていていいのだと思います」

「そうだよね。あなたがいないと困る人がいるからね」

「じゃあ、明日も生きています」

私がいくら、生きていていいんだよといっても
駄目なのです。
自分で生きている理由を
見つけていただきます。

そして、彼はとりあえず、次の日も来ます。
一安心です。

ただ、この不安、
すぐに解消するわけではないようで、
でも、自分で考えて、
何度もやりとりをすることもあります。

そして、ようやく、
生きていてよい実感がわくのか、
この話は終わります。

何度も、こういう話をしています。
そして、彼は今日も生きています。

*****

一般論でお話ししましょう。

つまり、
何かができないという役割が、
社会には必要なのです。
私たち職業的支援者も、
彼らがいなければ、
仕事がなくなります。

社会形成上、
「何かができない」人と
「何かができる」人がいることが、
重要なのです。

だから、私たちが関わる、
知的障害がある人も
社会に役立ってるのです。

別な事例ですが、
知的障害がある人がいるだけで
やさしい気持ちになれると
いう人もいます。

知的障害がある人が生まれたからこそ、
家族がまとまったというご家庭もあります。

人の悪口ばかりで
殺伐としていた企業の中で、
知的障害がある人が
にこやかに黙々と仕事をしていることに心打たれ、
明るい会社になったというところもあるようです。

もともと、
知的障害者施設で働くつもりではなかった私も、
知的障害がある人に言われた「ありがとう」という
ひとことがきっかけで、
この業界で楽しく仕事をしています。

知的障害がある彼らをきちんと知る人は、
知っています。
彼らがどんなに
私たちの人生に必要な人なのかを。

人は生きていていいのです。
全ての人には役割もあります。
不要な人はいません。
どんな人も。

知的障害がある人は、
役立たずで、
不要な人間だといわれる人も
おいでのようですが、
彼らがいなくなると
社会全体が崩れることを知らないだけです。

彼らの持つ強みは、
彼らにしかない強みです。
私たちにやれといわれても、
できないことを
彼らがしていることが多くあります。

皆さんは彼らが、どんな役割をして、
社会形成をしているかを
ご存じないだけです。

案外あなたの周りで大活躍なのに
気づいていらっしゃいようですね。
彼らは自分のしていることをプライド高く
主張する人たちではありませんからね。

彼らのできることは、
彼らに会うことですぐにわかります。
彼らがいることで、
何が起きているか。
いなくなったらその代りをだれがするのか?

まさか、と思うかもしれませんが、
彼らが社会の中で、
ものすごい働きをして、
経済の下支えをしている人もいるのです。
それを知れば、
彼らがいてくれなければ困る!
と思われることでしょう。

それだけではありません。
彼らに助けられた人もいます。
その人は、
彼らの力を知っています。

あなたが知的障害がある人に
接していらっしゃらないことは、
人生の中で非常にもったいないことです。

もし、そんな彼らのすごさに
ご興味があるのであれば、
ぜひ、彼らと接してみてください。
何をしている人たちなのか?
何をして社会形成に力を発揮しているのか?

ちょっと障害者施設をのぞきに
来るだけでもOKです。
びっくりを手に入れましょう!
人生観が変わりますよ!

生きている価値がない
知的障害者は、
ひとりもいません。
社会の中でどんなに重要な役割を持っているか?
その意味を目の当たりにしてください。

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3件のコメント

  • 中條 桂子

    ブログ受けとりたいのですができますか?
    よろしくお願い致します!!

  • あずま

    家族に「彼ら」がいる当事者です。毎日が苦痛です。コメ主様の美しい言葉にすがりたいですが、私には彼らが価値があるとは思えません。すいません。不都合でしたら削除して下さい。

  • えとう

    『生きる価値』につき、今現在の自分の考え

    2016.7.26以降、「生きる価値」、「生きる価値があるorない」を自分なりに考えました。
    今(2017.8.12)の結論は、
    ■人は、誰でも、生きる価値は、無い、かも知れない。
    ■人が、思っている、「価値」は人それぞれだから。
    それに、
    ■「生きる意味」と「価値」は結び付かないから。
    です。

    殺戮者の言う「生きる価値」は、きっと、経済に基づいた切り口だと思います。
    勇気を以て書くと、「役割」というのも、きっと、社会・集団に基づいた「役割」だと思います。
    「消費する役割」とか。
    ただ、
    人間って、自分の子供が一番そうですが、
    「死んで欲しくない」、「生きて欲しい」、「生き続けて欲しい」、
    そして、ええと、
    愛  ですか、
    これらを思う原因に「価値」も「役割」もへったくれも、無いと思います。
    生まれたての赤ちゃんに経済に基づく生産性など無い。
    赤ちゃんが、嬉しいとか悲しいとかの理屈ではなく、火が付いた様に全力で泣くことが、「役割」?ちょっと違う気がします。
    障害者にのみ、社会・経済を切り口にしたポジションを当てはめようとするのは、ヘンな気がします。

    自分が知っている障害者に、
    「自分は生きる価値があるのか?」と聞かれたら、
    (ホントに訊ねられたら、物凄く動揺し、決意を要するけど)
    「生きる価値が無い、というヤツはいると思う。
    でも、いなくなったら、こっちは悲しいから、
    気を付けて帰ってくれ」
    と言うと思います。
    今は。
    でも、そんな社会的解決に値してない言葉を、言えるだろうかとも、思います。

    それが今の自分の「生きる価値」の考え。
    取り留めも無く、

    ドロンッ!

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