「知らない人にされたら嫌」という感覚の基準



知的障害がある人への
虐待や人権侵害がなくならない状況で、
やはり、職業的支援者になったのであれば、
「自分がされたら嫌なことはしない」
という、本当に簡単なことを、
頭に思い浮かべられる人に
なってほしいなあと思うのです。

もちろん、
されたら嫌なことというのは、
人によって違いますから、
最終的には、
自分の嫌なことと相手の嫌なことの違いは
確認をすることになるとは思いますが、
職業的支援者の大前提として、
「相手を思いやる」
「相手中心の支援をする」
ということを考えつつ
支援をすることですし、
そのことを職業とすることで、
お給料をいただいているという大前提で、
彼ら知的障害の人と
接することを最低ラインとして、
「嫌がることをしない」を
考える人になってほしいと思うのです。

その基準として、
自分がされたら嫌だなというものもありますが、
それだけでは、
実は当てはまりにくいことは多々あります。

ですから、あなたが、
知らない人にしないことは、
知的障害がある人にはしない
ということも入れてみましょう。

たとえば、くんちゃん呼び。

自分は呼ばれても
一向に構わないという人もいますよね?
でも、知らない人にいきなり
呼ばれたらいかがでしょうか?

自分が嫌なことを
相手にしないというものの中には、
先ほども書きましたように、
自分はされてもかまわないというものが
多々ありますので、
そこは実は基準にはならないなあと思っています。

でも、知らない人にされたら嫌なことは、
もっと範囲が広がりますよね?

あなたのカバンの中身を、
知らない人に
急にのぞかれたらいかがでしょうか?

知らない人が、断りもなしに、
車いすを押し始めたらいかがでしょうか?

知らない人から、訳もわからず、
注意されたらいかがでしょうか?

知らないからこその恐怖もありますが、
この後どうなるのかわからないという不安もあり、
かといって、嫌だと反発できないこともあるでしょう。

職業的支援者は、
知らないうちに、
この「知らない人」がやるようなことを
知的障害の人にも
やっている可能性もあるのです。
やっているというか、
相手が嫌と感じるようなことを
しているといったほうが
正しいかもしれません。

同じことをするにしても、
相手に断ったり、
説明をしてからするのであれば、
何ら問題がないものもありますよね?

でも、いきなりすると言うことは、
彼らの気持ちは後回しになるので、
問題となることも多々あるのです。

自分がされたら嫌なことは
最低限しないことはあたりまえ。

そして、自分が知らない人に
急にされたら嫌なことも
しないというくらい
その幅を広げることです。

私たちは彼らと
対等だ・同等だといっていても、
彼らは、そうは思っていません。
職員が上と思っている人ばかりです。

その前提で、
支援をしていくことですが、
彼らと接していくときに、
相手はどう思うだろう?と
振り返りつつ、
この接し方でよいのだろうかと
思い返すことを常としましょう。

また、余談ですが、
この自分の言動に対して
反省や思い返す行為が多いと、
支援に正解がないと思い込む事に
つながりやすくなるかもしれませんが
それは違う次元のことです。

支援の正解がないから
自分はできないと思い込むことと、
同じ範疇に入れないことです。

人権侵害・虐待になる行動かどうかという視点には
常に疑問を持つべきですし、
あなたの支援は彼らのニーズに合わせ、
彼らにとって心地よい支援(正解)に近づけつつ
彼らに伺い、
答え(正解)を求めてみてください。

そして、人権侵害の行為は
ひとつでもふたつでも気づき減らす。

彼らが自分のより良い人生の
主人公になるためにです。