知的障害がある人が、自分で何かを決めるときに、
支援者側は、その答えに対して、
何やら、反対をすることもあります。
「どちらでもいいよ」というものもありますが、
選び方によっては、
社会的ルールの中にいることであっても、
何か自分自身にとって害となることもあるからです。
すると、支援者は、
「人間として正しい方」を選びがちです。
太っている人がもっと食べたいとなれば、
食べない方向で支援をしようとし、
肺が悪い人であれば、
たばこは吸わない方向で、
支援をしようとします。
夜起きている人は、夜に寝るよう促され、
一人でいる事が多いと、他者といるように促されます。
支援者が目の前にいる時は、彼らも
わかったふりをし、その場が過ぎることを待ちますが、
わかっていると言うことは納得したと言うことではなく、
支援者の言われたとおりにするかというと、
納得していない場合は、無理なのです。
つまり、できないのではなく、
やらないし、やるつもりもないときがあります。
支援者は、「わかった」といった彼らに期待をし、
あとで、できていないとわかると、
注意をするという手法を取っている人もいますが、
何も効果がありません。
自分や周りの人を振り返ってみてほしいのです。
どんなに体が壊れても、
お酒タバコなどがやめられない人もいます。
また逆に、たくさんの飲酒喫煙をしても、
何も体に出てこない人もいます。
いくら健康に気をつけ、
体に良いものを取り入れても、
病気になる人もいれば、
健康に気をつけていなくても、
健康を保持している人もいます。
何が基準で何を参考にすれば良いのか、
人それぞれです。
となると、
自分の身のことは、
自分で選んだ方法で人生を作り上げたことに、
納得した人生をすることもまた、
その人の人生ではないでしょうか?
もちろん、支援者ですから、
情報を充分に得にくい彼らには
そのことを選んだ時のメリットや
デメリットは伝える必要がありますが、
それでも、支援者の意に反して選ぶのであれば、
デメリットを承知の上で選ぶと言うことですから、
そういう状況にもなるかもしれないことは
ご理解いただくことになろうと思います。
責任って、誰にあるのか?
そう考える支援者もいらっしゃるでしょう。
自分の人生の主体であるなら、
知的障害があっても
本来、社会的ルールの中にある、
自分自身だけのことならば、
彼らが責任を持っても良いことがあると思うのです。
これは、自分の人生の過ごし方ですから。
自己選択・自己決定のあととの部分でしょう。
彼らが主体となり、自分の人生の責任者となる。
そのために私たち支援者は、
彼らが自分の人生の責任者となれるような
情報の提供や生活の成り立たせ方などの
支援もあるのではないでしょうか?
ただ、責任と言うと、何でもかんでもすべて捉えず、
一つ一つのことに対してだと思うのです。
タバコのことをどうするかと、
作業のことをどうするかでは、
二つのこととしてみましょう。
そのうちの一つのことを自分で選択し、決定し、
自分が決めたことに責任を持つというイメージです。
ひとつのことに責任を持てたとしても、
複数持てるとは限りませんから。
自己選択や自己決定は、
機会としてどんどん増えています。
そのあとの責任と言うことは
実はまだまだメジャーではありませんし、
本当に自分の人生に責任を持たせてもよいのか?
という考え方もあるでしょう。
支援者側が持っていることが多く、
そのために、主体にも主人公にも
なれない状況もまた、
問題があると思いませんか?
自己選択。
自己決定。
主体。
主人公。
責任。
知的障害があることで、
考えてこなかった部分でもあるかと思いますが、
彼らが自分の人生を自分で決めて、
納得して、
自分の責任で進んでいけるように、
私たちは情報の提供や
考えやすくすることに対しては、
支援ができてきています。
その自分で決めたことが、
私たち支援者から見て社会的ルールの範囲であるならば、
自分の人生の中で、決定して進んでいただく道筋を
任せてみることも思い描いてみませんか?
どんな方法があるのか、
まだまだ未知数ですが、
責任を持ってもらった時に何が起きるのか?
という不安の方を思い描くよりも、
自分で決めたことを実行することに趣を置き、
どんな主人公の道を行くことのメリットを
思い描きましょう。
そして、今後の支援者が進む道として、
責任という部分も頭に入れておく所から、
始めませんか?