支援者という人権侵害者



知的障害がある人を支援するという
本当の意味は何でしょうか?

障害とは何でしょうか?
そして、どこにあるのでしょうか?

私たち支援者は、
知的障害がある人を
社会に合わせようとしてはいないでしょうか?

それでよいのでしょうか?

社会の人たちが、
知的障害の人のことを
こんな困難があるのね?
と、知ることを創り出すのが
私たち支援者ではないでしょうか?

彼らには、
できないこともありますが、
できることもあります。

できないことを
ものすごく努力してできるようにしていくことが、
支援だと思っている人も多くいませんか?

私はそうは思いません。

誰でもそうだと思いますが、
もし、努力して何かができるように
なりたいのであれば、
取り組みますが、
それは自分にとって必要なことややりたいことです。

でも、いつもしていることのほとんどが、
できることの中でしていることが多いからです。

できないことをできなくてもよいというイメージを
持っていてよいのです。

その中で、
できる人にしていただきながら、共存社会を
作っていることなのです。

ちゃんとやってるよと支援者は言うと思いますが、
傍目に見ると、
知的障害がある人に様々なことを
要求している支援者が
多くいるよう見かけるのです。

では、どういうことを
支援者は知的障害者に要求しがちでしょうか?

 買い物でお金の計算をするべき 

これは、私自身、
買い物の計算はお店の人任せでやっています。
ピッタリのお金を出すときもあれば、
面倒で、細かいお金(小銭)を出さず、
大きなお金(札)で出すこともあります。

でも、知的障害がある人は、計算しなさいと言われます。

なぜ、そこで計算力を要求するのでしょうか?

「買い物ができる」で良いでしょう?

簡単な方法は、お財布ごと渡すことです。
お店の人がやってくれます。

 洋服は汚れたら取り換えるべき 

汚れは、わかりにくいですし、
私たちも汚れたから取り換えている人は少ないでしょう。

そこを要求する。

夏なら毎日変えるなど、
システムにしている人も多いですよね?
なのに、彼らには、
「汚れがわかる」ことを
要求している。

 飲酒喫煙を止められる 

「身体に悪いから、病気になるよ」と、
彼らに言いやすいのですが、
病気にならない人もいますので、
そのリスクを言う程度であれば、
良いと思いますが、うそはいけませんね。

あなたのお友達にも、やめさせているのでしょうか?
言ってないのではないですか?
彼らだけが言われ続けられることが、
おかしいのです。

 無駄遣い禁止 

自分のお金を
どうやって使うかは、
もっともっと自由にしていただきましょうよ!
でも、どうしても管理したくなっていますよね?

彼らは「無駄遣いをした」とは思っていません。
「無駄だ」と思ったのは、あなたです。

そのうち、自分のお金なのに、
うそを言ってでも、
何とかしてお金を手に入れる方法を考える彼らです。

枠にはめれば、
言うことを聞くと思っている支援者も多いですが、
枠にはめようとするから
抜け出ようとする人もまたいるのです。

彼らの自由さを
もっと思い描きましょう。

あなただって衝動買いをすることがありますよね?
それを棚に上げていませんか?

ただし、そういうことをしていると、
将来起きそうなことは伝えてもよいと思います。

必要なものとほしいものの違いは、
理解していないことでしょうからね。

このように考えていくと、
他にもたくさんあります。

彼らの生活を
あなたの価値観で縛り、
社会で生活するには、
それが当たり前だとばかりに、
彼らに強要していること。

それが、よかれと思って社会に合わせようとしたり、
支援者が考えている「正しい道」を行かせようとする
支援者からの人権侵害だとは考えず、
あたなには、そうしたほうがよいと思う考えがあり、
そこから抜け出せていないのです。

もしかしたら、周りからの評価が
こわいのかもしれませんし、
なにか、支援者としての自分が恥ずかしい思いを
したくないからかもしれません。

その時点で社会に合わせようとしているのかもしれません。

それは、自分の内面にある
不安なのでしょう。

でも、考えてみましょう。

支援とは何か?
自分がしている支援は、
本当に支援なのか?
その人が中心にいる支援なのか?

自分たちが人権侵害を犯さぬよう、
自分がしている支援に対しても
疑問を持ってみましょう。

そして、その支援を自分がされたら、
どう思うかを考えてみると、
見えてくるものがあるはずです。
さあ、自分を変化させ、
よりよい支援者になりましょう。