道筋は誰が作るのか?(支援の本質)



知的障害がある人が、
自分の人生を築きたくても、
自分で考え、自分で決定して、
どんどん自分から
道を作っていくわけではないことも多く、
私たち支援者が、
道を作って、
この道を行くようにと促すことも
多くありますし、
彼らは、そのことに安心し、
支援者が作った道通りに
行くことを望む人もいます。

こういった場合、
私たち支援者は、
それが良いことだと思い込み、
彼らも、その通りにしていくことが、
自分の道筋だと思い、
学校を卒業しても、
高齢になっても、
そういう人生を送り続ける人もいます。

さて、こういうことは、
お互い、
これでよいと思っているから
起きることで、
他の代替えのイメージもわいていないことから、
何も疑問視をせずに、
長年の間、
続く慣習のようなものなのでしょう。

さて、
これでよいのでしょうか?

私たち支援者は、
彼らが、できない事や困っていることに対して、
支援をしていくわけですが、
間違いやすいのは、
一旦支援が始まると、
ずっと支援をしていくものだと考えるところです。

つまり、この場合、
支援者が道筋を作ってしまったことで、
この人には道筋を作ることが
支援だと考え続けてしまうのです。

結論としては、
多くの場合は、
道筋の作り方を
支援するのではなく、
道筋を作ってしまう。

支援者が道筋を作るのと、
彼らが道筋を作るための支援するのとでは、
全く違うわけです。

そういう間違いをするので、
いつまでたっても
道筋を作ってしまうし、
彼らも「道筋は作られるものだ」と
考えてしまう訳です。

もちろん、最初は、
彼らも道筋がないと
進むことさえできなかったでしょうから、
最初は必要なのです。

ところが、いつまでも、
彼らの前を歩いて、
彼らそこについていくだけということに
なってはいないでしょうか?

もう少し具体的にお話しましょう。

電車に乗ってどこかに行くとしましょう。
最初はわからないので、
支援者が、つれていくでしょう。

この時に、
ただ単に連れていくだけではない
「支援の始まり」があるのです。

最終的にその人が一人で
どこかに行くことを想定しているか?
です。

想定していれば、
彼らの強みやできることを活かし、
できることをどんどんやっていただくはずです。

でも、想定していないと、
できないのだから、
支援者がやったほうが良いと思ったり、
できそうだけど、
ちょっとくらいいいだろう?と思ったり、
楽しむことを重視して、
なんでもやってあげたりしてしまうのです。

こうなると、いつまでたっても、
支援者としか行けないですし、
それで良しとなってしまうのです。

簡単に言ってしまえば、
そういう関わりはお互いにとって、
楽なのです。

支援を組み立て、
できることとできないことを
確認し、
自立方向に進んでいただくことのほうが、
技術も伴います。

ですから、楽な方向に
お互い、なびいているだけなのです。

私たち支援者は、
何をするべきなのか?

道筋を常に示す事ではなく、
彼らが自分自身で道筋を作れるように、
支援をしていくことが大切なのです。

あなたは、どんな支援をしているでしょう?
その支援で、
彼らは、自らの道筋を作ることに
進める支援でしょうか?

自分のしていることを振り返りつつ、
彼らの自立を支援していきましょう。