昔はインクルーシブ教育だった



自分が障害者福祉に来た理由は、
これがきっかけというものがいくつかあります。

その中で、
冨まつえ先生(故人)という存在は大きく、
みなさんにお話ししたいなと思うのです。

小学校1年の時の担任だった先生は、
私たちにとってもすてきな授業をしてくれたのです。

クラスには、
自閉症の男の子がいて、
いつもクレヨンでトラックの絵を描いていました。

私たちは、算数や国語の勉強をしているわけですが、
その子は、いつもトラックを描いていたのです。

国語の授業の時の先生は、
私たちには教科書通りのことを教えつつ、
その子には、「トラック」という言葉を
教えていました。

算数の時間の先生は、
私たちに、たし算などを教えている傍らで、
その子には、「赤いトラックが1台と青いトラックが1台だね」
と、トラックの絵を通じて算数を教えていたのです。

時々その子は休んでいました。
その時は、岩手で見つかったなど、先生は教えてくれました。

そして、何か月か後に家庭事情で入所施設に入ってしまい、
それっきり、その子とは会うことはなかったのです。

さて、同じ空間で同じ時間に、
ふたつの授業をしている先生という認識だったので、
小学校1年生ながら、
私はその先生のすごさを
感じていました。

養護学校はあったのでしょうか?
特殊学級はなかったです。
相当昔の話ですが、
先生みたいになりたいなぁという気持ちも
どこかにありました。

先生は転勤をしてしまい、自分が高校生の時に、
養護学校にいることを知りました。
やっぱり障害児の先生になったのかー

ますます、先生のすごさを感じていました。
今のような、チームで教えるわけでもなく、
一人ですからね。

さて、この先生、小学校1年生相手に、
授業の仕方もすごいと思いますが、
たぶん、私たちを信じる力が大きいように思うのです。

子供たちに何ができるかを
考えてくれていたのではないかと思うのです。

そして、できることから、
興味を引き出し、
様々なことを学ばせてくれたと思います。

いろいろな子がいるよというのも
その時教えてくれたこと。

自分だけじゃなくて、
いろいろな人がいて、
社会が成り立っていること。
お互い同じ空間にいることを認め合おうよ!

そう言うことを教えてくれたと思っています。

わざわざそういうことを言っていたのではないのですが、
先生が、楽しそうに私たちとやり取りをしていることが、
子供心ながらそう感じ取ったのだと思います。

だから、その子がいろいろすることに怒り出す子もいなかったし、
いなくなって、ぽかんとあいた机に淋しくもありました。

社会には、いろいろな子がいるんだよ!
お互い認め合おうよ!
あなたのできることから学びを得ようよ!

今、インクルーシブという言葉が注目されていますが、
彼女の教育は、
まさしくそのものだと思っています。

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