障害者虐待:「嫌なことに慣れさせる」という間違い



知的障害がある人が、
望んでいないことを
提示して、体験していただくことはあります。

これは、未体験の場合、
することさえ望んでいないときがあり、
体験して、はじめてそのことに触れる場合です。

その場合は、よい感覚が持てれば、
続けてやりたいという気持ちにもなるので、
未体験を体験することは、
支援としては当然あることだと捉えます。

ところが、
その体験をした際に、
嫌な感覚を持った場合、
その時はいったん止めに
するべきであるのにもかかわらず、
強引に、経験を積ませようとする
支援者がいます。

嫌がっているにもかかわらず、
「慣れれば大丈夫」という感覚を持ち、
「これくらいのことに、慣れなければ社会で困る」
などという強制力で、
無理強いをする場合です。

例えば、
いつも耳を抑えているような自閉症の人に、
わざわざうるさい部屋に連れて行き、
音に慣れるようにと強制するようなこと。

嫌いな食べ物を
食べれば慣れるよと強制すること。

ほんの一例ですが、
このように
「やっていれば慣れてくる論理」が
簡単に生まれるのです。

ご本人は、
不安や恐怖でしょうね。
嫌なことを無理強いさせられる恐怖。
そして、いつまで続くのかわからない
不安もあるでしょう。

明らかに虐待の域だと思われます。

では、なぜ、支援者は、
虐待の域であることに
気づかず、
強要するのでしょうか?

これは、まさしく
よかれと思ってやっている行動だからです。

ご本人のためにと
社会で支障なく生きていくために、
もしくは社会に迷惑をかけないようにと、
そんなことを思って、
強要してしまっている部分です。

ご本人の苦痛より、
社会の常識やルールに
合わせようとするがゆえに
起こしていることではないでしょうか?

こういうことを始めると、
自分は正しいと思い込み、
彼らが拒否をしようものなら、
さらに強制力を持って、
自分がもつ論理の正当性を
ぶつけることになります。

もちろん、知的障害がある人たちは、
そこに歯向かうこともできず、
言われたままになります。

さて、あなたが、嫌なことを、
慣れるからと言われ、
強制されるシーンを想像してみてください。

嫌なものに慣れるというのは、
誰かに言われて、
なれていくものでもありませんし、
特に、「五感」や「欲」を揺るがすような
嫌なイメージを持つものは、
自分でチャレンジしてみようかなと思わない時点で、
体験をしていかないでしょう。

そして、
この嫌だという気持ちを
なぜ、この人は
わからないのだろう?と
思うのではないでしょうか?

さらに、このことに慣れなくても、
あなたは、この社会で生きていけることを
知っているはずです。
回避する方法も身に着けているのです。
だから、慣れなくても大丈夫なのもわかっています。

このようなことを
あなたが、自分の身に置き換えて、
想像をしていけるのであれば、
知的障害がある人に
強要することはしないはずですが、
例えば、あなたが苦手なものと、
彼らが苦手なものが違うために、
そこが感じ取れない可能性があります。

例えば、
聴覚過敏の自閉症の人の恐怖の大きさが
どれくらいなのかを
あなたは
わからないですよね。

人それぞれの、
好き嫌いも
恐怖も楽しさも
あなたの常識に
当てはめられるものではないのです。

そして、その手のことは、
人に言われて、
経験を積み重ねることで、
全てに慣れることでもないのです。

ましてや、「障害」のために、
できないこともありますから、
恐怖となるのでしたら、
どんなに失礼なことをしているかと、
今、気づいていただきたいと思うのです。

慣れれば克服できるという考え方には、
問題が潜んでいることを認識し、
「知らないことの体験」は
慎重に行い、
少しでも拒否感が出て来たら無理強いをせず、
中断する気持ちで、
関わっていきましょう。

一歩間違えば、
そこから虐待にもなりかねません。
彼らの表情を伺い、
気持ちを確認し、進めましょう。