知的障害者と接し得た自分の幸せを伝えることの意味(津久井やまゆり園の事件から学ぶ)



津久井やまゆり園での事件から2年がたちました。
自分たちの支援現場では、事件から何を学び、何を変化させたのでしょうか?
それは、私たち一人一人が問われていることだと思っています。

2016年7月26日記事
「津久井やまゆり園の事件について、今思うこと20160726」

津久井やまゆり園の事件について、今思うこと20160726

2016年8月3日記事
親が入所施設に子を預ける理由

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2017年7月25日記事
知的障害者が 存在しなければならない理由

知的障害者が 存在しなければならない理由

この3つの記事は、
津久井やまゆり園の事件をきっかけに発信した記事です。

そして、今回は、
「自分の考えと違う人がいること」
「共存という考えがあること」
「自分の幸せを伝える意味」
を考えたいと思います。

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社会に合わせようしている支援者の間違い

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知的障害がある人の支援者の中には、ご本人の障害に目を向け、社会が変わってほしいと言いつつも、知的障害者である彼らを「社会に合わせようとする」関わりを知らず知らずのうちに行っている場合があります。

知的障害がある彼らには、障害があるからできないことや難しいことなどがあります。

しかし、彼らが悪いとか、努力がない人のように扱い、ご本人ができないことや興味がないこと対しても努力をさせる支援者が、あとを絶ちません。

ところで、津久井やまゆり園の事件がきっかけとなり、
「障害者なんかいない方がよいと思っている」という人たちの気持ちの露出が多くありました。

これらの気持ちは、障害がある人を支援している人たちにとっては許せない感情になるかもしれませんが、現実のことであり、私は、露出したことそのものは、よかったと思っています。

なぜなら、日本はそういう社会なのだということがわかったからです。

障害者を差別しないとか、共生社会とか、支援者が好むきれいな言葉の裏で、そうは思わない人がいるのは事実であり、そこに目を背けるだけでは、何の解決もないと私は考えます。

その人たちが、なぜそういう言い方になるのかというと、障害がある人たちのことを知らないからです。知ろうともしていない可能性もあります。

そして、あなた自身が日ごろの支援で、知的障害がある人たちを「社会に合わせられる障害者」にするための関わりをしているのであれば、「障害者なんかいない方がよい」と言っている人と、どこが違うのか?と自分を問うことになるのではないでしょうか?

私たち支援者は、障害がある人の「望む生活」を受け止め、困っていることを知り、暮らしにくくなっている部分に支援をします。

例えば、社会の側に障害があることも多いので、社会に人たちに対して働きかけをすることも、支援の一部です。

でも、実際にはそういうことは、「無理だよね?」「そうはいっても、社会に合わせないと」と言って片づけられていることも多くありませんか?

そして、支援者が適切な支援をしていないということも多々あるよう見受けられます。一つの例でいうと、虐待事件もその表れです。

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自分と違う意見は存在する

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津久井やまゆり園の事件を起こした彼は、自分の考えを正しいと思って行動をしました。もちろん、それがよいこととは私は思いませんが、彼は正当な理由を持って、実行しました。

これが、障害がある人のためであり、社会のためになることだという意味を持って。

私たちもまた、障害がある人のため、社会のためになることと思って支援をしていますので、目的は、ある意味変わりがないのですが、その手法が全く違ったということです。

でも、どうしてここまで手法の異なる行動なのでしょうか?

自分の関わり方は正しいと思っている支援者が大半です。そして、他支援者の関わり方は、間違いだと思う人もたくさんいます。あの方法は間違いだから、直すべきだと思うことも多々あるでしょう。

自分の目の前から、自分と違う考えを取り除きたいと思うかもしれません。

ただ、ご存じないかもしれませんが、あちらもまた、あなたに対し、同じようなことを思っている可能性もあるのです。

なぜなら、人は自分を正しいと思った時に、自分を正当化する生き物だからです。

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共生でよいのか?

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共生という言葉があります。実は私はあまり好きな言葉ではありません。
共生を目指すと、誰かが何かを我慢しなければならないような気がするからです。

人の考えは様々で、様々だからこそ発展しますし、様々だからこそ、アクシデントが起き、その場合は改善をすることができます。

様々な考えは、こういう考え方もあるのかとの気づきをもたらしてくれることもあります。

考え方は、すべて同じ方がよいのでしょうか?
それは違います。

同じ方向しか見ることができなかったときのリスクの方が危険です。なぜなら、間違っている考えが多数決で決まってしまうことは、あり得るからです。
そのような時に、少数の違う意見は大切な一石を投じることにもなるのです。

Aという考え方だけではない。Bという考え方も、Cという考え方もあることを、まずは、知ることが大切なことです。

そして、自分と違う考え方があることに対し、その考えを受け入れるかどうかは自分が決めればよいことです。

でも、その人はそういう考え方なのだということは、知っておくことはしたいところです。

そのうえで、もし話し合うことができるのであれば、相違点やその考え方をお互いにわかり合うこともしたいですし、どうしても変更した方が、良さそうであるなら、変えてもらえることができないのか、提案はお互いにできるのです。

一緒に生きていくことを、嫌な人だっています。自分に合わない人がいるということをで、息苦しくなる必要はないのです。でも、そういう人がいることは事実ですから、少し距離を置いてよいのです。

共に生きるという時に、自分の嫌な意見があることを想定していないように感じています。
でも、自分の嫌いな人、考えが合わない人はいますし、その人と共に生きるということは、しんどくなる人もいるのではないでしょうか?

ものすごく極端な例ですが、この津久井やまゆり園の事件を起こした彼とも共に生きられるのか?を突き詰められているように思いませんか?そうなった時にしんどい無理だとか、という人もいるのではないかと思うのです。

「共に生きる」を望んだとしても、自分に合わない人と共に生きることは望んでない人もまた、多いことが事実なのではないでしょうか?

「正しい」「正しくない」は、時代とともに変わっていきます。優生保護ということに見られるように、昔であれば、彼の考え方は「正しい」に入っていたかもしれません。もちろん、今は「正しくない」方向でしょう。

自分以外の意見があるのが事実なのです。そして、彼の考えに賛同する人もいるのが事実なのです。

そういう人がいるのは、知っておくほうがよいですし、だからこそ、共生より共存の方がお互いの安全を保てるのです。嫌なら距離を置き、でも、いることは知っておくという意味です。

津久井やまゆり園の事件を起こした彼やそれに賛同する人のことを認めなくてもいいのです。(もちろん認める人もいると思います)でも、いることは知っておくとよいと思いますし、目を背けているだけでは何も解決しないのではないでしょうか?

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自分の幸せを伝える意味

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様々な考え方があり、眼をそむけたくなるような意見が存在していることが、今、わかったわけですから、何ができるのか?は、知的障害がある人の近くにいる私たちが、今までと違った行動することなのだと思っています。

彼らのような行動をする人に対して、びくびくし、知的障害がある人が犠牲になったことに、ただただ、悲しがっているだけでは、何も解決しないような気がします。

かといって事件を起こした彼に、批判をしているだけでも何も変わりません。

まずは、自分が、自分の中に軸を持ち、知的障害がある人を社会に合わせようとする関わり方を変えていきませんか?

知的障害がある人がそのままで社会の中に存在していただくことです。そこに支援を入れ障害を軽減させることです。その時の主人公はご本人ですし、ご本人が欲する支援をすることです。

そうすることで、知的障害がある人のことを知らない人たちに知らせる土壌を作ることになります。

目の前にある、自分の課題に向き合いませんか?
まず、知的障害がある人を受け入れる。そして、自分自身が共存することなのです。

彼らの困っているところに目を向けられるのは、彼らを知らない人ではなく、あなた自身です。
そして、私自身です。

知的障害がある人のことを知らずに、津久井やまゆり園の事件を起こした彼と同調する人を減らしたいのであれば、知的障害がある人のことを知ってもらうことが近道です。

まずは、今、目の前にいる知的障害がある人の幸せを考え、一緒にいることの幸せを感じ、その幸せな自分の生活を一人でも多くの人に伝える事が、世の中を変えるのではないでしょうか?

事件や知的障害がある人を否定するような言動に翻弄されてはなりません。

自分を保ち、自分らしく。周りに変わってほしいなら、まず自分が変わることなのです。

知的障害がある人と笑いながら、毎日を過ごす。そして、知的障害がある人のことを知らない人たちに、知的障害がある人といることで得ている「自分が持っている幸せ」を伝えていきましょう。

嫌な意見にふたをせず目をそらさず、共存しつつ、自分が正しいと思った支援を続け、知的障害がある人たちにある障害が、一つでも二つでも減っていきますように。

笑顔で「一緒にいてよかった」を感じる人が、もっともっと増えますように。私たちは、自分のところで、するべきことをしていくことですし、それを知ってもらえるようにすることだと考えます。

できないと思わないでほしいです。
まず、自分の行動から見直し、彼らの障害を知り、支援の質を高め、支援を続けることです。そしてそのことを楽しみましょう。

そして、私は、知的障害がある人に関わり、手に入れた幸せはたくさんの皆さんに伝えていいきます。
私は、事件を起こした彼のような考え方があることと共存しますが、彼の思うような世界にはさせません。彼にとっては本意ではないと思いますが、知的障害がある人のそばにいる私たちの幸せが多くなればなるほど、彼の思い描いた世界は淘汰されることでしょう。

最後になりました。
19人。
一人一人のあなたに
合掌